エチェベリア王宮内における力関係は、現在において一定の拮抗が保たれている。
 王であるヴァジーハ8世は高齢ではなく、また持病を患ってもいない。
 その上、王位継承に関しても、王位継承順第一位アルベロア王子で殆ど一本化。
 国内における平和状態は、王宮内においても同様――――と言うのが、表向きの国家事情。
 実際には、そう上手く行く筈もない。
 世の中、何が起こるかわからない――――なんて言うのは、大抵の場合において不適合。
 事の多くは、誰かが明確な意図を持って仕掛けた規定路線だ。
「確か、そんな事を言ってましたよね、ちょっと前に」
「そうだったか。余り自分の発言は覚えていない性質だから、何とも言えないな」
 矢筒を担いだフェイルの言葉に、デュランダルは鞘から露見した漆黒の刃を眺めながら応える。
 長剣オプスキュリテの価値は、その稀少性のみならず。
 当然ながら、硬度、そして切れ味において、世界でも類を見ない剣である事は、
 持ち主の腕を見れば、誰もが理解するところだ。
「察するに、用件は……クトゥネシリカの事か」
「ええ。当然、誰かが仕掛けたって事ですよね、この茶番は」
 副師団長室に響くフェイルの声は、普段よりも明らかに荒かった。
 その様子を横目で視界に入れ、部屋の主は剣の手入れを始める。
 良く切れる剣は、同時に良く切れなくなる剣でもある。
 手入れを怠れば、簡単にその性能を落とす。
 特に、厄介なのは柄の部分。
 ここから知らない間に腐食が進み、気付いた時には錆が浮いていると言うケースは、
 例えそれなりの地位にいる剣士においても、割とありがちだ。
 愛剣を持たない、王宮の採用している装備剣しか使わない剣士であれば、それであっても
 然程大きな問題とはならないが、自分の剣を持つ剣士であれば、手入れを頻繁に
 行うのは、当然の事。
 それでも――――デュランダルの日常通りの行動と、平然とした対応に、
 フェイルは苛立ちを隠せずにいた。
「彼女は……シリカは、この王宮で伸し上がる野心を持ってた。女が剣士として
 大成する事の困難を知っていて、それでも果敢に挑戦してた。その彼女が
 除隊するって言う事は、そう言う事です」
「断言か。目指すところは違うものの、無謀な目標を抱き邁進するお前が
 共感を覚えるのは、ある意味当然なのかもしれないが……」
 デュランダルは手を止め、フェイルの方に顔も向けた。
 その目に、鋭さが宿る。
「余り詮索はするな。理由を知ったところで、お前にはどうする事もできない」
「何をする事ができない事と、知らないで良いと思う事との間に、相関関係を
 見出す事は出来ませんよ。僕は納得できないだけです。別に何をしようって言う訳じゃない」
「とても、そう言う顔には見えないな。今にも彼女の上司を問い詰めに行こうと言う
 強い意思を感じる」
 上司――――デュランダルのその言葉に、フェイルは大きく嘆息した。
「……やっぱり、そう言う事ですか」
 クトゥネシリカ=リングレンの除隊。
 その報は、瞬く間に【銀朱】、そしてそれ以外の隊にも広がり、大きな話題となっていた。
 そして、その話題はいずれも、『笑い者』と言うカテゴリーに入る。
 フェイルはその点に関しても、強い憤りを感じていた。
 女性を蔑視する傾向が強いのは、どの国の王宮も同じ。
 が、それをフェイルが倣う理由は、何処にもなかった。
「女がいる騎士団。それは、市民の支持を得る上では、一つのステータスですよね。
 でも、それは一種のシンボルとして、ある程度の地位にいる事が条件。
 女に並ばれる、女の下で働く……それが我慢できない直属の上司と同僚が、彼女を脅した」
 デュランダルの目に、フェイルの目が入る。
「そんなところ、ですか」
 その目には、鷹が見えた。
 気高く宙を舞い、獲物を狙う野生の鷹。
 本来ならそこに、憎悪は欠片もない。
 生きる為の本能のみ。
 が――――フェイルの目の中の鷹には、確かな感情があった。
 憤りが、あった。
「詳細については、俺も把握していない」
 その翼を視界に納め、デュランダルは目を細める。
 瞼を覆う事で、羽の奥に燦然と輝く眩しさから眼を守る為に。
「ただ、そのお前の仮定が現実としてあった可能性を否定する気もない。
 俺はその件に関して、関与する意思はないし、お前の行動を止めるつもりもない。
 自分の洞察に自信があって、それに怒りを感じるのなら、そのままに動くと良い。
 当然、その行動の全責任を自分で背負う覚悟があるのなら、と言う前提でな」
 今度はフェイルが瞼を下げる。
 眉間に寄った皺は、更にその深度を上げていた。
「……僕が許せないのは、間違いなくその脅しにフレイアが利用された事」
 そして、吐き捨てる。
「この王宮で、女が生きて行くのは、並大抵の覚悟じゃ出来ない。
 何をされても、どんな脅しを受けても、彼女なら屈しなかった筈だ。
 自分の事だったら。でも……フレイアの事を持ち出されたら、きっと折れる」
 盲目の少女、フレイア=リングレン。
 彼女がどのような人生を歩んできたのか、そして誰に寄りかかっているのか、 
 それは誰の目にも明らかだ。
 クトゥネシリカが、足枷となる事を承知で彼女を傍に置いていた意味も。
 夢と現実の狭間で苦悩し、それでも前を見ていた意思も。
「それも含め、彼女の選択と言う事だ」
 デュランダルの言葉は、辛辣だった。
 騎士として大成するならば、身内の安全や未来を天秤にかけ、それでも
 地面へ這い蹲る覚悟が必要。
 それがないのなら、ここにいるべきではない。
 それは、正論だった。
 正論だからこそ、フェイルは苛立ちを覚える。
「……師匠の事、随分と慕ってたんですけどね」
 クトゥネシリカはずっと――――ずっと、デュランダルに助けを求めていた。
 女性である事、デュランダル派と見做されている事、妹の事。
 多重に亘る負の荷物を抱え、それでも自身の所属する部隊の中で生き残っていくには、
『デュランダルの弟子』と言う肩書きを得るしかない。
 当然、剣士として尊敬の念を抱いていただろう。
 だが、それだけが師事を請う理由ではなかった。
 クトゥネシリカは、自分の夢と妹との共存を、最後の最後まで望んでいた。
 そして、最後まで足掻いていた。
 が――――それは、叶わなかった。
 そして彼女は、妹を選んだ。
 フェイルはそう解釈していた。
 だからこそ、クトゥネシリカの除隊に深い憤りを覚えていた。
 首を縦に振らず、助け舟も出さなかったデュランダルに、強い怒りを覚えていた。
「俺は剣士の弟子は取らない」
 その怒りへ、デュランダルは回答を示す。
 冷静に、そして冷淡に。
「そして、盲目の妹をこの王宮に置いたままで出世して行こうと言う彼女の
 生き方に、同調する事も出来ない。力を貸そうとは思わなかった」
 提示された言葉は、デュランダルがデュランダルである証であると同時に、
『銀仮面』と呼ばれる所以でもあった。
 そして、その精神性にクトゥネシリカが惹かれていた事も知っていたフェイルは――――
「そう、ですか」
 感情をぶつける事も叶わず、やり切れない思いを胸元で持て余していた。
「お前は人の心配をするより、まず自分の事をしっかりとやれ。今のままでは
 トライデントに勝つ事など、到底叶わないぞ」
「もう師匠にまで届いたんですか、その話。って事は……」
「決定だ。御前試合の緒戦。ある意味、最も重要な試合に選ばれた。光栄に思う事だな」
 御前試合は、優勝者を決めたり、1位を決定したりはしない。
 一戦一戦が決勝戦。
 ただ、そこにあえて序列をつけるとすれば、やはり最後の試合と言うのは、
 最も注目度が高く、好戦が期待出来るカードだ。
 一方、一戦目は比較的、余興に近い戦いが組まれる事が多い。
 不名誉のように思われがちだが、実は注目度が高く、その後の試合の流れ、
 催しそのものの空気を決定付ける重要な役回りでもある。
「光栄、ね……」
 それでも、フェイルの心は晴れない。
 クトゥネシリカとフレイアは突然、この王宮から去った。
 別れの言葉もなく、唐突に。
 クトゥネシリカに嫌われている事を自覚していたフェイルは、それに関して
 納得はしていたが、同時にやるせなさも感じていた。
 あらゆるものが、納得できない。
 歯痒く、そしてやるせない。
 そんなフェイルの様子を察したのか、デュランダルは剣を置き、背後を向く。
 これは、苦手な科白を吐く際の、彼の癖だった。
「お前が、横柄な態度や周囲に迎合しない生き方で、甘えを生まないようにしているのと
 同じように……彼女もまた、不器用なりに様々な策を講じ、強くなろうとしていた。
 その彼女が下した決断だ。今はただ、新たな前途を祈ってやれ」
「……」
 デュランダルは、まるで言葉でフェイルの頭を撫でるように、そんな発言をして来た。
 自分の生き方が看破されていた事への驚きは、微塵もない。
 寧ろ、それを理解してくれていると判断し、気持ちに一区切りが付いた。
 デュランダルの視野は、自分よりも遥かに広く、そして鮮明だ――――
 そう思わざるを得ず、苦笑する。
「一つだけ、教えて下さい。あの二人の安全と生活は……」
「保証されている。機密を守る事が条件だがな」
「わかりました。ありがとうございます」
 詳細を知らないと言う、デュランダルの先の言に触れる事もなく。
 フェイルの礼の意味を問う事もなく。
 その話題は、ここで終わった。
「それじゃ、訓練に励みます。確かに、今のままじゃ勝てないでしょうし」
「そう言う事だ。少なくとも、俺を慌てさせるくらいの芸当が出来なければ、
 試合にもならない」
 置いた剣――――オプスキュリテを掴み、デュランダルが立ち上がる。
 そして、その動作と同時に、フェイルの喉元にその切っ先を突きつけていた。
 フェイルは、動けない。
 デュランダルに殺気がなかったとか、この副師団長室で突然剣先を向けてくるなど
 予想も出来なかったとか、師匠と呼ぶ人物から得物を突きつけられるなど
 想定の範囲外だとか、そう言った理由では決してない。
 フェイルは、純粋に動けなかった。
 その余りにも完全な、無駄を一切省いた所作に、反応出来なかった。
 常識的な速度であれば、例えどれだけ不意を付かれても、自分が何をされようとしているか
 と言う認識くらいは出来るのだが――――それさえも許されない。
「トライデントなら、反撃を試みようと槍に手を添えた頃合だ」
「……そんなに、差があるって事ですか」
 接近戦で弓矢を操る――――そんな戦いをする為に日々技術を磨くフェイルにとって、
 反応速度は命綱。
 接近戦でものを言う能力は、結局のところはそれに尽きる。
 一歩、二歩で攻撃範囲内へと入る程の距離で敵と対峙した場合、重要なのは
 一瞬でも早く敵より先に動く事。
 人間の筋力は、始動してから最大出力に至るまでには、どれ程瞬発力に優れた者でも
 数秒は要する。
 接近戦において、最大速度で移動する事は殆どない。
 よって、最高出力の大きさは意味を成さない。
 重要なのは、加速の速度、そして反応速度。
 特に、反応は最も大きな意味を持つ。
 動き出しがほんの少しでも遅かった場合、それを取り戻す為には相当なスピードの差が
 あり、尚且つある程度の時間が必要。
 その間に攻め込まれてしまえば、終わりだ。
 何故なら、フェイルには敵の攻撃を受けられる武器も防具も、そして
 奇麗に避けられる絶対的な身体能力もない。
 ある程度の体力と筋力は有しているが、接近戦のスペシャリスト達より先んじている訳でもない。
 よって――――相手よりも先に動く。
 それが、何よりも求められる能力となる。
「弓を取れ」
 落胆するフェイルに背を向け、デュランダルが平坦な口調で告げる。
「それって……稽古付けてくれるって事ですか?」
「これから毎日、この時間にここへ来い。無論、弓兵としての訓練もこれまで通りだ。
 御前試合まで、あと三ヶ月強。この約100日間、一日たりとも穏便に眠れる日はないと知れ」
「……わーい。嬉しいな」
 棒読み口調で、歓喜を表す。
 眼前にいる男を師匠と呼び始め、既に半年が経過しようとしていた。
 その間、フェイルはデュランダルから様々な教訓を得ていたが、実際に手合わせを
 行ったのは、初対面時のみ。
 その際にデュランダルは、全力はおろか、実力の1割も見せていなかったと言う事を知り、
 愕然とした瞬間を思い返し――――思わず半眼になる。
 その実力差が、現時点で埋まったとは到底思えない。
 そんな人間から、地獄の宣告を受け、素直に喜べる筈もなかった。
「お前の欠点は、身体のバランスだ」
 が、指導者としての彼を知る唯一の人間でもあるフェイルは、その指導力について
 全く疑う余地がない事も知っている。
「足の爪先を意識して動いているのは、筋が良い証拠だが……膝の使い方がなっていない。
 それでは、幾ら素早く踏み込めても、その力が膝で磨耗する。それに、上半身と下半身の
 連動もままならない。お前の戦闘スタイルにおいて、それは致命的だ」
「膝、ですか……意識してない訳じゃないんですけど」
「論より証拠。扉の前まで下がれ」
 デュランダルの言に従い、フェイルは扉のある入り口まで下がる。
 この副師団長室は、当然ながら訓練場のような広さはないが、接近戦をレクチャーする
 だけのスペースは十分にある。
 机の前に立つデュランダルと、扉の前に立つフェイルの距離は、約6m。
『あの日』より、2mも短い。
 遠くにいる筈のデュランダルが、フェイルにはやけに近くに見えた。
「構えは、特にこれと言うものはない。個々に自分に合った体勢を見つければいい。
 重要なのは、どんな構えであっても、、膝で全体のバランスを整える事。
 例えば、右足を前に出し、斜に構えるのであれば……左足の膝を絞り、
 軸を作る必要がある。このようにな。爪先の位置によって、膝で調整する」
 そのデュランダルが、実際に言葉通りの構えをし、懇切丁寧に解説をしている。
 かなりの違和感。
 だが、同時に新鮮でもあった。
「お前の場合、弓を構える事が条件に加わる。右手で引くから、左足を前にする事が前提だな。
 この場合、必然的に両足とも右側に爪先を向ける事になるが、これでは左へ動かざるを得ない時に
 どうしても溜めが必要になる。それを回避する為には、右の膝を……どうした」
「いえ。別に」
 そして、更に――――ある種の懺悔にも似た心持ちもあった。
 この国の現在を担う、天才剣士の指導。
 受けたくて受けられない人間はごまんといる。
 その中の一人の顔が、目の前に浮かんだ。
 怒っている顔ばかりを目にしていたので、想像に困る事はない。
 そんな彼女が、最後に――――笑っていたことを、ふと思い出す。
 あれは、惜別の笑顔だった。
 フェイルは、そう確信した。
 既にあの時、もう別れは告げられていたのだと。
『御前試合、頑張ってくれ』
 それが、餞の言葉だったのだと――――
「――――……っ」
 目の前に突如として現れた剣の切っ先を、背筋の凍るような思いで眺める一方で、
 先程の自分の愚考を恥じていた。
 彼女は、黙って去った訳じゃなかった。
「そうだ。右膝を内に絞っていれば、爪先の方向とは違う方向へも、瞬時に動ける。
 その体勢と感覚を忘れるな」
 音もなく、瞬きする間もなく踏み込み、空間を消したデュランダルは、
 フェイルの膝を見ながら、満足げに呟いた。
 フェイルの身体は――――ほんの僅か、左側に傾いていた。
 第一歩すら踏み出していない、微かな反応。
 誰が背中を押したのかは、火を見るより明らかだった。
「……わかったよ。頑張りゃ良いんだろ、畜生」
「ん?」
「独り言です。引き続きご指導お願いします」
 大きく息を吸って、そして吐いて。
 フェイルは親指で、目尻を一度だけ、払った。







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